イベント報告詳細
2015.03.10
このイベントは開催済みです。
例年になく寒く厳しかったこの冬も、どうやら終わりに近づき、
一気に春さきのくしゃみ連発も真っ盛り状態。東京のさくら開花は3月末とのこと。
さて、4月18日に今年2度目の「勝海舟の会」歴史探訪を行います。
今回は、あの卸売市場のある築地界隈です。
築地市場は、プロの買い出し人が集う「場内市場」が、
来年、平成28年までに豊洲へ移転します。
そして「場外市場」は中央区と協力し93の店舗区画からなる
「築地新市場(仮称)」ショッピングタウンとしてリニューアルをめざします。
もともと、卸売りの河岸は日本橋にありました。
大正12年の関東大震災で壊滅し、その年12月には、
旧外国人居留地(築地居留地)の海軍省所有地を借り受けて
臨時の東京市設魚市場を開設したのが築地市場の始まりです。
築地には、幕府により安政6年・1859年に築地軍艦操練所が設置され、
軍艦操練所初代の教授方頭取(きょうじゅがたとうどり=学長にあたる)には、
勝 海舟が就任しました。
翌年に海軍兵学寮になり、やがて明治維新になってこの築地には、
明治新政府により海軍の重要機関が、次々建てられることとなり、
帝国海軍の発祥の地となりました。
さらに明治9年・1876年には海軍兵学校と改称され、
明治20年・1887年には、広島・江田島に移転されました。
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今回の歴史探訪先には含まれていませんが、
築地といえば、ランドマークは築地本願寺ですね。
古代インド様式をモチーフとした建物で、初めて見たとき、えっ!と思う建物です。
この本堂は昭和9年・1934年の竣工で、
ちょっと日本のお寺とはイメージが異なりますね。それは…?
そもそも築地本願寺は、元和3年・1617年、西本願寺の別院として
浅草に建立されました。浅草横山町にあったことから
「江戸浅草御堂」と呼ばれていました。
明暦3年・1657年の「明暦の大火」(振袖火事・丸山火事とも呼ばれる)により焼失。
さきの2月・両国探訪の回向院で、その歴史経緯と史実を教えていただきました。
両国が、近代100年間で関東大震災で死者10万人、東京大空襲で死者10万人と
(すべてが両国での死者ではありませんが、大半はこの両国でした)
2度の大きな惨禍に見舞われ、
江戸・東京にとって特別の鎮魂の地だと理解していました。
しかし、それよりもはるか今から358年前(西暦1657年3月2日)に
「明暦の大火」が起きていました。
死者は諸説あり、幅があるものの3万から10万人と記録されています。
呪われた地・両国を相撲力士の力で鎮魂するために、
現在の地に両国国技館があったんですね。納得!
不死鳥・東京のシンボルが両国です。
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話は築地に戻りますが「明暦の大火」後、幕府より区画整理のため旧地へ
の再建ができず、
代替地として八丁堀の海上が幕府より下付され、
その地を佃島の浄土真宗門徒が中心となり、海を埋め立てて地を築き、
延宝7年・1679年再建し「築地御坊」と呼ばれました。
その後、大正12年・1923年の関東大震災にともなう火災で焼失。
現在の築地本願寺本堂は昭和9年・1934年、
建築家・伊藤忠太の設計により再建されました。
東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太は、
当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあったから依頼を受けました。
本堂は、平成23年・2011年、石塚とともに登録有形文化財に登録されています。
また、明治2年・1869年には築地鉄砲洲(現在の隅田川沿いの湊町から明石町)に
外国人居留地が設けられました。その関係から時を経て、
明治35年・1902年在日アメリカ人子弟向けのナショナル・スクールとして、
アメリカンスクールの第1号校舎が、この地区に設立されました。
また、中津藩藩士・福澤諭吉が蘭学塾(慶應義塾)を開いた場所もあります。
佃大橋を渡って月島の佃島砲台跡を探訪したあと
懇親会は、月島もんじゃで盛り上がりました。
築地探訪を開催しました。
例年になく寒く厳しかったこの冬も、どうやら終わりに近づき、
一気に春さきのくしゃみ連発も真っ盛り状態。東京のさくら開花は3月末とのこと。
さて、4月18日に今年2度目の「勝海舟の会」歴史探訪を行います。
今回は、あの卸売市場のある築地界隈です。
築地市場は、プロの買い出し人が集う「場内市場」が、
来年、平成28年までに豊洲へ移転します。
そして「場外市場」は中央区と協力し93の店舗区画からなる
「築地新市場(仮称)」ショッピングタウンとしてリニューアルをめざします。
もともと、卸売りの河岸は日本橋にありました。
大正12年の関東大震災で壊滅し、その年12月には、
旧外国人居留地(築地居留地)の海軍省所有地を借り受けて
臨時の東京市設魚市場を開設したのが築地市場の始まりです。
築地には、幕府により安政6年・1859年に築地軍艦操練所が設置され、
軍艦操練所初代の教授方頭取(きょうじゅがたとうどり=学長にあたる)には、
勝 海舟が就任しました。
翌年に海軍兵学寮になり、やがて明治維新になってこの築地には、
明治新政府により海軍の重要機関が、次々建てられることとなり、
帝国海軍の発祥の地となりました。
さらに明治9年・1876年には海軍兵学校と改称され、
明治20年・1887年には、広島・江田島に移転されました。
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今回の歴史探訪先には含まれていませんが、
築地といえば、ランドマークは築地本願寺ですね。
古代インド様式をモチーフとした建物で、初めて見たとき、えっ!と思う建物です。
この本堂は昭和9年・1934年の竣工で、
ちょっと日本のお寺とはイメージが異なりますね。それは…?
そもそも築地本願寺は、元和3年・1617年、西本願寺の別院として
浅草に建立されました。浅草横山町にあったことから
「江戸浅草御堂」と呼ばれていました。
明暦3年・1657年の「明暦の大火」(振袖火事・丸山火事とも呼ばれる)により焼失。
さきの2月・両国探訪の回向院で、その歴史経緯と史実を教えていただきました。
両国が、近代100年間で関東大震災で死者10万人、東京大空襲で死者10万人と
(すべてが両国での死者ではありませんが、大半はこの両国でした)
2度の大きな惨禍に見舞われ、
江戸・東京にとって特別の鎮魂の地だと理解していました。
しかし、それよりもはるか今から358年前(西暦1657年3月2日)に
「明暦の大火」が起きていました。
死者は諸説あり、幅があるものの3万から10万人と記録されています。
呪われた地・両国を相撲力士の力で鎮魂するために、
現在の地に両国国技館があったんですね。納得!
不死鳥・東京のシンボルが両国です。
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話は築地に戻りますが「明暦の大火」後、幕府より区画整理のため旧地へ
の再建ができず、
代替地として八丁堀の海上が幕府より下付され、
その地を佃島の浄土真宗門徒が中心となり、海を埋め立てて地を築き、
延宝7年・1679年再建し「築地御坊」と呼ばれました。
その後、大正12年・1923年の関東大震災にともなう火災で焼失。
現在の築地本願寺本堂は昭和9年・1934年、
建築家・伊藤忠太の設計により再建されました。
東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太は、
当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあったから依頼を受けました。
本堂は、平成23年・2011年、石塚とともに登録有形文化財に登録されています。
また、明治2年・1869年には築地鉄砲洲(現在の隅田川沿いの湊町から明石町)に
外国人居留地が設けられました。その関係から時を経て、
明治35年・1902年在日アメリカ人子弟向けのナショナル・スクールとして、
アメリカンスクールの第1号校舎が、この地区に設立されました。
また、中津藩藩士・福澤諭吉が蘭学塾(慶應義塾)を開いた場所もあります。
佃大橋を渡って月島の佃島砲台跡を探訪したあと
懇親会は、月島もんじゃで盛り上がりました。