2015.06.07 このイベントは開催済みです。

浦賀・横須賀史跡探訪しました。

「勝海舟の会」浦賀・横須賀史跡探訪


浦賀・横須賀史跡探訪行ってきました。
今回は、初のマイクロバス・チャータでのツアーでした。
朝、絶好の「海舟晴れ」の下、京急久里浜駅東口をスタート。
※「海舟晴れ」とは、なぜか「勝海舟の会・イベント」の日は晴れることから命名されています。

最初の探訪先、久里浜港に面した「ペリー公園のペリー記念館」に到着!
ペリー記念館のコンダクターの方から案内説明を聴きました。
公園内のペリー上陸記念碑の碑文「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は、
日本初代内閣総理大臣・伊藤博文の書が刻まれたものでした。
明治34年(1901年)6月に完成した巨大な一枚岩の石碑は、
仙台産の花崗岩を使用したのだそうです。
そして70年前(昭和20年)太平洋戦争の状況悪化するなか、
アメリカ憎しの日本世相の中で、敗戦前の昭和20年(1945年)2月、
横須賀市の翼賛壮年団員によって、ペリー上陸記念碑は、一度倒されました。
しかし敗戦後、その年の11月にはアメリカ進駐軍に気兼ねして、
石碑は建て直されたとのことです。このバタバタおそまつ劇には、一同苦笑。

次は久里浜港の北隣、浦賀港に面した西叶神社にバスを止め、
徒歩で、近くの愛宕山公園にある「咸臨丸出航の碑」へ。
愛宕山公園の入口角柱表示の前から石段が続き、
これが、200段の石段をのぼることとなりました。
「無理そうな方は探訪をあきらめてください」の呼びかけ案内で、数名が断念。
きつい石段のぼりで悲鳴も聞こえる中、到着!
横長の「咸臨丸出航の碑」の裏側には、咸臨丸に乗船した乗員名が列挙されていました。
軍艦奉行・木村摂津守喜毅、教授方頭取・勝麟太郎、
通弁役・中浜万次郎…、最後のほうに奉行従者・福沢諭吉 の名も。
「咸臨丸出航の碑」は、昭和35年7月14日建立 と記してあり、
日米修好通商百年記念行事運営会長 石坂泰三
横須賀市長 長野正義 とあります。55年前の建立なんですね。

「咸臨丸出航の碑」からさらに石段をのぼると「中島三郎助の招魂碑」がありました。
中島三郎助は、嘉永6年の黒船が来た当時、浦賀奉行所与力で、
ペリーと直接相対した窓口の応接掛として活躍。説明板には、
慶応4年(1868年)開陽丸で江戸脱出
明治2年(1869年)千代ヶ岡砲台で息子恒太郎・英次郎とともに死去
碑(中島三郎助の招魂碑)の題辞は三郎助と公私ともに親交があり
五稜郭で共に闘った榎本武揚が記し、…
この碑の除幕の日(明治24年)中央気象台長であった荒井郁之助の発案で、
中島三郎助の意志を継いだ近代造船所(浦賀船渠株式会社=浦賀ドック)を
浦賀の地で開業することが決定しました。(  )内は補足文。
と記してありました。いわば、中島三郎助は近代浦賀の発展の祖という存在ですね。
浦賀船渠株式会社は、のちの住友重機械工業浦賀造船所で、
横須賀市浦賀地区に所在した造船所として、
海上自衛隊の駆逐艦の建造を得意として、昭和を駆け抜けたそうです。
12年前の平成15年、IHI(石川島播磨重工業)との艦艇造船事業統合のため
閉鎖された。とのことです。

今回は行きませんでしたが、
ここからさらに石段を登ると、愛宕山の上に広場があるそうで、そこに、
一般社団法人 日本龍馬会が高さ40m(台座含む)坂本龍馬立像を建立
http://www.nippon-ryomakai.jp/news_20140502.html
という予定だそうです。
ケタ外れのバカでかい龍馬立像って、いつ頃完成予定なんでしょうかねェ?
完成したら、まちがいなく浦賀のランドマークですね。

西叶神社にもどって参拝。
天保13年(1842)に建造された神社で、
社殿を取り巻く総数230を超える彫刻は、
江戸の名彫師・安房の彫刻師・後藤利兵衛の作品だそうです。
願いが「叶う」叶神社。パワースポットとしても人気があるそうです。
西叶神社の勾玉を、東叶神社のお守り袋に納めて身につけていると、
恋愛をはじめさまざまな良縁を結んでいただけるそうです。

浦賀湾をぐるっと回って、東叶神社へ。
何人かは、乗船料200円のボートで浦賀湾対岸の東叶神社へ。
東叶神社に上げてもらい、昼食タイム!横須賀といえば、崎陽軒のチャーハン弁当で昼食。
シュウマイも入っていて、チャーハンはおいしかったデス。
東叶神社宮司奥様のご説明では、
昨年、クララ・ホイットニーの末裔が来日され、
東叶神社へ来社されたときの記念写真など見せていただき、
わが「勝 海舟の会」名誉顧問の高山みな子さんはホイットニー家と交流があるそうで、
その折、同行して記念写真に入っていらっしゃいました。
東叶神社は、海舟さんが咸臨丸で出発直前の準備の2日間を過ごし、
太平洋横断という命がけチャレンジの覚悟を決めるため、
断食・水垢離(みずごり)をしたその痕跡がある場所です。
これがまた大変で、朝のうちの愛宕山「咸臨丸出航の碑」石段に勝るとも劣らない長い石段。
3分の1の方々は、登らなかったようです。
しかし、山頂の記念碑裏の展望スポットは、東京湾出口の浦賀水道の素晴らしい景色でした。

時間に余裕があったので、観音崎の見えるレストハウス前まで移動して、
浦賀水道対岸の千葉県富津金谷を望み、晴天の東京湾景観をのんびり眺めました。

そして、個人的に本日もっとも気になる史跡探訪だった京急大津駅南にある、
浄土宗・信楽寺(しんぎょうじ)龍馬の妻・お龍の菩提寺に到着!
京急大津には、お龍資料館もあり、重要な観光財源のようです。
信楽寺に上げていただき、滝のある裏庭の日本庭園を観せていただき素晴らしさに感動。

明治7年(1874年)、勝海舟の紹介で神奈川宿の料亭・田中家で仲居として働いたそうです。
田中家に伝わる話では頑固で使い辛かったとのこと(笑)。
翌明治8年(1875年)、西村松兵衛と再婚し、西村ツルとして横須賀で暮らしました。
なんで、西村龍子じゃないのかなー?
また、このお寺の説明掲示板でも、坂本龍子の墓となっていて、
墓碑も「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれていて、なんで??
後日、帰ってから調べてみると、
お龍さんの実妹・光枝が夫に先立たれてお龍を頼るようになり3人で暮らし始めますが、
やがて夫の松兵衛と妹・光枝が内縁関係となり、二人でお龍の元を離れて別居してしまいます。
男ってしょうがないですネー。坂本龍子の墓に納得!
明治後期の雑誌取材で、お龍は
「腹の底から親切だったのは西郷と勝そして寺田屋お登勢だけだった」と語っているそうです。
お龍は明治39年1月15日に横須賀の貧乏長屋で亡くなったそうです。
死因は脳卒中だったようです。享年満65歳。

横須賀に移動。さあ、本日ラストの三笠公園にある日本海海戦の旗艦・戦艦三笠見学です。
艦内甲板上で、ボランティアの解説おじさんから、
早口でパッパと日本海海戦全容の説明を聴き、
バルチック艦隊38隻vs帝国海軍108隻の圧倒的戦力差と事前準備の差を知り事実に納得。
たしかに記憶では、日本海海戦にそんな戦力数の差があったと思っていませんでした。
逆に少数の戦力で多数のバルチック艦隊に大勝利したように記憶していました。
じっくり見学するには1時間以上は掛かるほどで、映像室もあり、展示満載でした。
史跡探訪は、予定通りの16時で終了。お疲れさまでした。
参加の半数以上の方々は、マイクロバスでJR横須賀への帰路に。

そして、勝海舟の会・懇親会in横須賀。歩くこと10分あまりで、
斎藤さんの「やきとり龍馬におまかせ」のお店に。
斎藤さんは、「湘南海援隊」代表で、横須賀の龍馬ファンです。
5月31日は「中島三郎助碑前まつり」だったそうです。
http://www.kanaloco.jp/article/101356
2時間ほど盛り上がって、みなさんで京急横須賀駅から帰りましたとさ。
事故もなく、めでたし、めでたし。